目的、判断が客観的理性と対峙する時

今までも自分のしてきた判断が良かったと思えることは一度もない。「その判断は、当時の自分ができる最大限の努力、推考の末に辿り着いた最適解であり、後に後悔しても仕方がない」という俗説は、私はあまり支持しない。どんな問題でもそうだが、「綺麗事」や「理想論」と言われているものは、その言葉自体が実現の不可能性を伴っているといった、暗黙に共有されている堕落的諦観はそれこそ本当の意味での解決や自分で考えることを放棄していると問いたい。不誠実であると。

こんなことを問い詰め続けても鬱になってしまうので、たまに休憩しよう。前述で私の思想と予防線を張ったところで本題に入ろう。

自分の身の回りにはあまりいないが、私自身は今(というかここ5,6年の間)重要な判断に迫られているという危機感をもって日々過ごしている。

リスクもリターンも承知のつもりで、リターンに目を向ければ輝かしい未来が待っているかもしれないという希望があり、リスクに目を向ければ下は奈落であり、一触即発で、選択した先の未来で自分が「取り返しがつかなかった」と現状維持の分岐を切望していることが想像できる。

何がと言われれば、簡単に言えば転職するか現状の会社に居続けるかを考えているのである。

判断基準も難しい。「私の肌感覚」「SNSでの俗説」「会社やたまに会う友人、親兄弟との会話で確認する空気感、世論」どれも信用に値するものではない。というか、究極は「自分の好きなこと、得意なこと、大切にしたいことのために動くべきだ」というのと「今受けている恩恵を忘れていないか?現状維持、変えられないものは変えられない、今の会社で頑張ればいい」というのはどちらもある意味正しいと思う。

だからこそ、現状維持バイアスと、多様性が謳われる現代で自分自身もどうにかしたいという気持ちが”現状維持している自分”に対して、お前は自己欺瞞をしていると脅迫されているような焦燥感に日々苦しめられているのではなかろうか。これも一種の現代病かも。→私の肌感覚、SNSでの俗説(笑)

まだまだ書き足りないですが、明日も仕事なのでまた続きは後程加筆いたします。

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