表現方法、趣味の模索
- 収集系:鉱物収集、BB弾集め
- 論理系:パズル?、麻雀、ネットワーク、プログラミング
- 文章系:ブログ、エッセイ
- 夢日記系:そのまま。心理学を追及してみるもよし、夢占いをやってみるのもよし。
- 運動系:バスケ、ダンス、八極拳
- その他:アクアリウム、テラリウム
悩みに悩んで出した選択肢のほんの一握り。
「二番煎じは嫌だ」とこだわり続けた結果何も生み出せないまま。
インプット⇔アウトプットは誰でもできる(やろうと思えば)。
奇抜で誰も想像がつかないものを生み出せないのは自分の想像力不足だと自身を責め立て、不安だけを募らせてその構造に自らはまっていく自分を俯瞰して憂いてもいた。
この、一つの思考に縛られないこと、むしろ「一つ情熱をもって貫き通すことが出来ない」という自分の特性こそ嫌悪して、自分らしく表現するためには、のめりこんで身を捧げなければいけないという強迫が必須だと思い込んでいたつい最近までの自分がいた。
矛盾。中途半端。両価。中庸。だからこそ。だからこそなのだ。それこそ活かすべきなのだ。
簡単に自己洗脳して神経衰弱するほど弱いのに、自分自身を失わず、闘う姿勢を突き通せるのはなぜか。家庭環境の影響で自己愛が強いのは承知している。弱さの理由として、人間関係や社会集団との間で意識・無意識的に共有される常識に応えようとし、その概念が自身の価値観や生き方というコアにある信念を蹂躙し浸食するとしても「選択せざるを得ない」という、厭世的諦観が徐々に凝り固まり、社会集団で生き抜くスタンダードなモデルだと勘違いしたせいであると推測する。
何が足りなかったのか?
私は高卒で入社した。いわゆるJTCで、わかりやすく「日本の会社感」が出ていた。 学生時代でさえ人間嫌いだったのに社会の構造や立ち回り方なんて尚更わからなかった。 私は最初に、もしかしたら厳しい試練が待ち構えているかもしれないから、どんなときも自分のメンタルを最優先にしよう、と誓ったのは覚えている。それがのちに自己愛をさらに強化することにつながるのだが。
予想通り、試練はすぐに、というか現場配属の7月から降りかかった。長くなるので所々割愛するが、助役からのパワハラ、主任およびグループからは無視、助役の擁護、攻撃、職場の同期からも叱責など様々だった。
当時は特に属人的にひどい環境がそろってはいたが、現在に至っても対人関係の不安はぬぐい切れない。それはなぜか。⇒次回に引き継ぎます。
目覚めのきっかけは「諦観」という概念を思い出し、改めて考え直してみたとき。 次回、「対人関係不安の正体と対処方法」「諦観の功徳」にて。
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